パーキンソン氏病からの復活

「ラザロのように、私は生き返った!」  ジョン・ラドック

私が患っていた症状 - それは例えばシャワーを浴びるというような単純な肉体的活動の後でさえ感じる圧倒的な疲労感やクリアに話す事が困難になってきたこと、肉体の機敏性や協調性の欠如、そして私の左半身で絶えず続く震顫(しんせん、震え)。それらに対して、私は否応なく注意を払わざるを得ませんでした。これらの症状は、精神療法医として、教会とコミュニティー活動へのボランティアとして、教師として、私が活動的な生活を送り、忙しいスケジュールをこなしていくことを困難にしてしまったのです。私は常に自分がエネルギーやスタミナを消耗しており、かつて何度もしていたように、体内にエネルギーを貯えておくような状態に自分自身を持っていくことが出来ないことに気がつきました。私はそれまで健康に関しては全くの優良でしたから、これらの症状は、私と主治医を困惑させました。 1992年、ある優秀な神経科医が結局それらの症状をパーキンソン氏病(注:運動減少筋硬直をきたす疾患)(P.D.)と診断しました。晩年私の父がこの病気と診断されていたので、私はパーキンソン氏病についてのいくつかの知識がありました。そして私の曾祖母もパーキンソン氏病の症状を示していました。でも、まさか、自分もそんな病気を患うなんて - この老齢にして起こる病気を患うには、私はまだ49歳であまりにも若すぎると異議を唱えて主張しました。

私はほとんどの神経科医によって勧められる薬、ドーパミン(注:脳内の神経物質)の誘導薬、シネメット(Sinemet)を摂取することに対しては非常に用心しなければいけない、ということに十分な知識がすでにありました。 シネメットは両刃の剣でした。それはパーキンソン氏病を患った人の何人かを、ある程度の期間救うことが出来ましたが、同時に絶えず美観を損ない、見た目を醜くさせる運動異常症(ジスキネジー)(四肢、舌、そして頭の連続的で統制の利かない、そしてしばしば痛みを伴う痙攣症の筋肉の動き)を引き起こすの です。医療に関わった人達、そして素人の多くが、現在の重大な欠点は、その薬が実際に脳の神経単位(ニューロン)に付加的な損傷を引き起こすと感じているということです。こういった理由のため、私はもはや選択の余地が無いと感じるまで3年もの間、その薬を飲むことを拒絶していたほどです。

シネメットは私に、1度におよそ45分~60分の間身体の動きを調和させる能力を与え、私に服を着るというような活動を行えることを可能にしました。しかしながら、リバウンド効果がその結果として起こり、実際にはギクシャクした動き、震顫(身体の震え)、そして疲労が増加してしまったのです。私はこの「常用」時間(シネメットを服用している人によってしばしば用いられる言い回し)内に、自分の1日を慎重に構成することを開始し、この貴重な「常用」時間内で成されなければならないこと - 入浴、食事の準備、患者に会うといったこと -を行うことにしました。なぜなら、この45分~60分を過ぎゆくままにしていたなら、私の身体は、パンの塊をしっかりと締めているよりひもを解くというような単純な動作ですら行えなくなってしまうのです。

パーキンソン氏病は、ドーパミンの生産者である黒質と呼ばれている脳の基底近くにある黒い細胞を、だんだんと、そして不可解にも殺していくことで不具を引き起こすのです。家庭用の潤滑油WD-40(注:商品名)のように、ドーパミンは動作に流動性を与えます。ドーパミンが無くなってしまったため、私は最も簡単な作業といったものを行う能力さえ奪われてしまったのです。靴のひもを結ぶこと、ベッドで寝返りを打つこと、バスタブに入ったりバスタブから起き上がったりすること、そして車を運転することが、へラクレス(注:ギリシア神話最大の英雄)の偉業さながらになったのです。

1995 年の終わりごろになると、服を着たり、入浴したり、食事の準備をするといった単純なことに私のエネルギーの全ては費やされてしまいました。薬を飲んでいても、そのような活動を行った後は毎回、次の活動に向けて、1時間かそこいらの間、私は横になり休養しなければなりませんでした。私は1日に2~3人の患者を何とか診ることが出来ました。というのも私は自分の仕事が心から好きで、私の患者を助けてあげることに非常な満足感を得ることが出来ていたからです。し かし、長い間働きながら実現不可能となった自分の職業的キャリアをついにあきらめなければならない時が来たとき、私はその時があまりにも早かったことに気付いたのです。

1月の私の父の突然の死、2月の私のライフワークの終焉と、昨年の度重なる損失は、うつ病の底知れぬ暗黒の深い穴の中へと私を沈めました。私は悲しみのみならず、自分が役に立たない存在であるといった感覚を経験しまし た。私はヨブ(注:旧約聖書のヨブ記)の神への嘆き叫ぶ声と自分を同一視しました。私は「常用」期間に祈り、瞑想し、聖書を読み、そして詩を書き、絵を描くことで慰めとなる瞬間を見つけました。

ほんの2~3年間に、私の生活は、繁栄し満足感いっぱいだった仕事や活動的なライフスタイルを楽しむといったことから、無収入の不具者になり、隠遁者の生活を送り、またほとんど家から出ないといった生活に変わってしまったのです。私は自分の動作をうまくまとめることが出来なくなってしまったため、車を運転することを止めてしまいました。

自立した性質を持っているために、私は自分のジレンマの奥深さを誰かと正直に分かち合うことを躊躇しました。 1度、私が自分を取り巻く状況がどれだけ絶望的になってしまったか話したとき、家族や友人、そして近所からもたらされた多くの援助は驚くべきものでした。友人は食べ物を買って用意してくれて、食料品店、歯科医、医者、そして教会まで私を連れていってくれました。 彼らは請求書のための小切手を書いてくれたり、戸外の散歩に連れていってくれたり、あるいはお茶を飲むために私を訪ねてくれたり、一緒に祈ってくれたりしました。近所の人達は私の庭仕事をしてくれて、図書館から本を借りてきてくれました。 私のある1週間の最も輝くべき経験のうちの1つは、私の友人のノーメールと私が老人ホームで暮らしているある友人を訪ねたときでした。 私は気分転換としてこのことを行うことが、この私にも、そして他の誰かにも与えるべき何かがあるように感じたのです。

私の病気は、たとえそれがほんのささいな癒しのヒントを与えてくれるものであったとしても、病気を癒すための達成方法を追求するために、よりオープンに、そしてよりクリエイティブになるためのやる気を私の中で作り上げてくれました。私は何年もの間鍼灸に関わっていたので、オルタナティブ(代替的な)医療的アプローチにはなじみがありました。私は今、レイキ、頭蓋仙骨マッサージ、カイロプラクティック、催眠療法、ホメオパシー、中国のハーブ、サイキック・リー ディング/ヒーラー、そしてキネシオロギーといったものを思い切って行っています。

私の親しい友人で何年もA.R.E.のメンバーであったダイアン・コワルスキーは、パーキンソン氏病に対するケイシーのアプローチを調査するよう勧めてくれました。その次の日、私はA.R.E.に加わりました。パーキンソン氏病のためのリーディング対する私の最初の反応は、いろいろな感情が混じり合ったもの でした。ケイシーはさまざまなプロトコール(実験計画案)を述べていました。それらは、マッサージ、ウェット・セル装置、食餌療法、理想に基づいて生きること、祈り、そして奉仕といったものでした。しかしパーキンソン氏病の症状から回復した人の成功例を収めた話はありませんでした。それにもかかわらず、私 はウェット・セル装置を注文することを決意し、私自身の治療プログラムを開始しました。ウェット・セル装置を使うのを止めたり再び始めたりした2~3ヶ月 後に、私はパーキンソン氏病に関する調査プロジェクトについて、メリディアン・インスティティートから連絡を受け取りました。私はその次の日にそのプロジェクトに申し込み、そして自営業の園芸家である(「ダイアンによる庭」を経営している)ダイアンが私をバージニア・ビーチまで運転してくれ、昨年11月 に1週間続いたA.R.E.-メリディアン・インスティテュートの会議の間、私のサポーターとして奉仕してくれたのです。

私たちが到着したとき、私たちに対するキース・ヴォンデローの奉仕に基づいた態度と親切は、来る素晴らしい1週間に対して祈りに満ちた気持ちの雰囲気を作り上げてくれました。会議を通して、ダイアンと私は、私たちが幻想的な夢を経験しているのかどうかといぶかりました。私はすぐさま出席者のほとんどの人達と接点があることを経験し、まるで前から彼らを知っているかのように親密にうちとけ合うことに時間はかからず、快適感を覚えました。サイキックのメアリー・ ローチは、後でそこで見たことを確かめたところ、私たちが過去生で一緒にいたことがあったと述べました。年齢の近い私たちのうちの4人は共にクスクスと笑い、遊び、私たちの人生について夜まで話し込みました。

デイビッド・マクミラン、 エリック・メイン、カール・ネルソン、ダグ・リチャーズ、トム・デューイー、そしてキースのスタッフ達は、「それは10コースにもわたる食事のようで、そのコース料理はその前のコース料理よりもさらにおいしかった」とダイアンがたとえたような素晴らしい会議の内容を提供してくれました。私たちはガブリエ ル・ドリノヴァンの驚くべき調理技術による、ケイシー・ダイエットの心尽くしの滋養物を体験しました。私たちは、例えば同じ食事では、動物性蛋白質とでん粉を食べないようにする(肉が供されたときは、パン、ロールパン、ジャガイモ、あるいは米は食べない)というような、ケイシーの食事法の原理や、食餌の 80%で果物と野菜を食べることで身体のアルカリ性の保ち方を学びました。

その1 週間はウェット・セル装置、ブレスワーク(注:呼吸に重点をおいたセラピー)、心構えと感情の持ち方、理想、ケイシー・ダイエット、グラッド・ヘルパーズ (Glad Helpers)による癒しのための祈り、朝食と昼食の前の瞑想、朝食の席での毎日のドリーム・ワーク、カイロプラクティック調整、A.R.E.ヘルス・ サービス・デパートメント(A.R.E. Health Services Department)でのスチーム・バスとオイルマッサージで占められました。私にとってのクライマックスは、デイビッド・マクミランがリーディング 4085-1を読んだときでした。私はその瞬間、癒しに向けてのケイシーのプロトコールは私にとって効果があると実感したのです。ケイシーは、精神的心構えの調整、金塩化物の溶解液/硝酸塩銀の溶解液でかわるがわる用いるウェット・セル装置を行い、そしてその装置の使用に引き続き、毎日オイルマッサージをすることを指示していました。私の父の診断以来、私はこの病気について勉強してきましたが、この進行性の速い衰弱化を伴う神経病疾患に向けての治癒の見込みといったものは、今まで一度も読んだり聞いたりしたことはありませんでした。しかもケイシーは「そのような実施が成された期間を通して、助けをもたらすかの心構え、そして有益となる諸力を保持するのであれば、パーキンソン氏病と呼ばれているこの欠乏症は、ほとんど完全に根絶出来るであろ う」(4085-1)と言っているのです。

しかし恐れが忍び寄ってきました。 それは、私の生活にこれらの複雑なプロトコールを融和させるためのエネルギーや力をどのように身に付けたら良いのか?ということでした。私はまた、私の古くからの独立性の性質から言って、私が必要とする助けを受け入れることが出来るようになるためには、譲歩しなければならないということを悟ったのです。私は自分の背中を自分でマッサージすることなど絶対出来ませんでした。私が癒しを求めるのであれば、頼んだり受け取ったりするという私の問題と向き合わなければならなかったのです。生きるか死ぬかの選択は明確でした。私はストイックになって、たった1人でこれからやっていって、ケイシーの神から与えられた勧告を実現させないことにするべきなのか?あるいは他人の助けを要請することで私の人生に他人を迎えることにすべきなのか?と。

私が家に帰ったとき、私は祈り、私の教会の告示板に私のことを公(おおやけ)にし、助けを求める電話をかけ始めたのです。再び、私はその返事の多さに圧倒されました。なんと私の生活において、19人の人たちが目下ウェット・セルのプロトコールを実行するために私を助けてくれているのです。いろいろな人たちは彼らが出来ることを自発的に申し出てくれます。何人かの人は毎月来てくれて、また他の人たちは毎週来てくれます。- それは私にとってもう1つのレッスンである、人生は豊かなものであるということの証しでした。

ウェッ ト・セル - それは懐中電灯のボルト数を使った低電圧の電池のようなもの - を使うことで、私は時々私の四肢にピリピリする気分や平和、そして落ち着いた感覚といったものを味わいます。私は30分の使用時間の間瞑想し、神である存在から祝福されたといった気分を体験したあと自分の意識を戻します。私はウェット・セルとマッサージを私の生活の中で最も重要なものとし、それらを用いたり行ったりする日を怠ることはほとんどありませんでした。

砂糖を絶つこと以外、食餌療法の原理は、私が予想していたよりも行うことはたやすいことでした。パーキンソン氏病と診断された多くの人のように、私は砂糖、特にペストリー(注:パイやタルトのような練り粉菓子)を切望してしまいます。砂糖を食べると、私はすぐにエネルギーの高まりを感じましたが、その後で鉛のおもしのように疲れて倒れ、私の貴重なスタミナと力が奪い去られてしまったように感じました。白砂糖を排除し、その他の甘いもの(蜂蜜やメープル・シロップ)を思い切って制限することは、私の身体の癒しに非常に重要なこととなりました。

私はいつもかなり健康的な食事をしていましたので、勧められた食べ物が劇的な変化をもたらすということはありませんでした。私は何年もの間、有機栽培された果物、野菜、そして穀物を食べ続けていたのです。しかしながら、ケイシーが 勧めた野菜の量には変化をもたらしました。野菜をきれいに洗い、切ったり調理をしたりすることが骨の折れる労働となったため、友達がこれを行うことを名乗り出てくれ、ジッパー付きの袋に野菜を入れて食べるときまで保存できるようにしてくれました。このような友人からの申し出の贈り物は、他の活動のために私のエネルギーを貯える助けとなりました。

私の食事はシンプルになりました。 朝食にオートミールか果物、昼食にはサラダ、夕食にはいくらかの蛋白質(羊、魚、家禽類[注:鶏、ガチョウ、七面鳥など])と蒸した野菜です。私は1口1 口を楽しみながら味わいました。私の便通を定期的にするために、そして適切な機能を行えるよう私の身体の細胞に充分な液体を供給するために、各食事の間に私はレモン・ジュース入りの6杯~8杯のグラスの水を注意深く飲むことにしました。

5ヶ月間ケイシーのプロトコールとウェット・セル装置/マッサージを行った後、私は癒しのいくつかの面は非常に捕らえにくく、しかし他の面には劇的に現われたことに気付きました。私にとってもっとも劇的だったのは、車の運転を再びできるようになるための協調作用を私が再び取り戻したことでした。エネルギーと協調が許す限り、私は現在、食品店まで、医者との面会まで、あるいは教会まで自分で運転をしています。ほとんどの日々、私の声は今までより大きくなっており、もっと聞き取れるようになっています。私は請求書のための小切手を書いたり、より容易に筆記体で短いメモを書いたり、そして私自身の食べ物の買い物や食事の用意が出来るようになったのです。
ほとんどの夜、ベッドの中で今までよりも容易に寝返りをうつことができ、その結果夜ほとんど目を覚ますことがなく なりました。私は以前のように奮闘することなく、バスタブから起き上がることが出来ます。私のエネルギー、スタミナ、そして筋肉運動の協調は依然として予測不可能で、仕事に戻ることは出来てはいませんが、神は存在するということを認識している内面の平和、そして力といった私の中で深く浸透した感覚は、私の人生に与えられたものだと感じています。

私はこの癒しの旅は、私の人生で経験するさまざまな絶頂と谷間の1つであると気付きました。上記でリストされている活動の多くをこなせる日もあれば、私が唯一行える活動は1日中祈り瞑想することだけといったように、私の身体が行えることはそれしかないという日もあります。私にとって、この癒しの経験は常に昇り詰めて行くグラフのようなものではなく、むしろ非常にぎざぎざしたジグザグのコースを貫いている線のようなものなのです。

ケイシーの養成法にから恩恵を得ているのは私1人ではありません。プログラムに参加した、他の9人から成る参加者の何人かがその結果をこのように述べています。「私の健康と幸福は日ごとに大きく成長していっています」とワシントン州、カークランドのグレン・ゴースマンは言っています。「この短い期間の後ですら、私は素晴らしい変化が私の身体に起こりつつあるのが分かります。ウェット・セルは効きます! 私の微笑みが戻り、私はそれを友達と分かち合っています。私はもはやあんな"無表情な顔の人"ではありません。私には今もっと多くのスタミナがあります。 睡眠時間もより少なくて済んでいます。私の目はより強くなっており、それほど交差することなく、もっと読むことができるようになりました。奇跡の中でも本当の奇跡と言えますが、私の嗅覚の感覚が戻ってきました!...私は主が私と共に歩いてくれていることをもっと深く認識しています。」

ニュー・ハンプシャー州のダーハムに住むマリッサ・リチャードソンはこう言っています。「癒しが行われている、あるいは癒しが起ころうとしているといった完璧な確信に向かって、私の考えは今まで以上にはっきりと変わっていっていま す。私は実際この今の状態は、この病気の癒しに関しての私の7年間にも及ぶ探索の最終章に達したといった感じがします。物理的に言っても、私のシネメット の服用と服用の間の期間がより長くなっていますし、私が何の震顫も感じないとき、エネルギーや動くことを体験する際に改善していることが感じられます!」

コネチカット州に住むジュディス・ロヴォナはこのように書いてきました。「硬直性が薄れてきました。それほど素晴らしい日ではない日とは全く異って、より多くの素晴らしい日々を経験しています。もっとリラックスできるようにもなりました。私はいずれ丈夫になるだろうといった内面の気付きが感じられます。また私は私たちのグループの全員が癒されることを希求する心からの気持ちと関心があります。」

私は、ウェット・セル/マッサージ・セラピーを用いたため、「不治の」神経病であるALSから劇的に回復した、ノース・カロライナ州に住むデビッド・アトキ ンソンと定期的に話すことで励まされています。彼こそ、エドガー・ケイシーが癒しのプロトコールは「一貫して、根気強く、祈りの気持ちを込めて」応用しなければならないとパーキンソン氏病のための度重なるリーディング何度も強調したように、他の人を勇気づけることが出来る生き証人なのです。ケイシーはまたこうも言っています「あきらめるな!」と。そしてその言葉はパーキンソン氏病と診断された私たち、あるいは何らかの慢性の病気と診断された人達にとって重要な言葉です。

私は私の中の「静かで、小さな声」が他の方法を試すようにと指示するまで、ケイシー療法を継続して行っていきます。しかし私は既にラザロになったような気がしています。私は再び生き返り、少しずつ、体力、スタミナ、そして筋肉運動の協調を取り戻しつつあります。私は、神がこの私の経験の1部になることができるよう、神の手が祝福を込めて私の上に置かれたのが感じられます。

メリディアン・インスティテュート

霊―精神―肉体の結びつきに関する調査より
付記:この論文はベンチャー・インワード(Venture Inward)の1997年11月-12月号に記載されたものです。
翻訳:堀幹彦