筋ジストロフィーからの復活

筋ジストロフィー患者の手記-筋ジストロフィーと闘う療法
エドガー・ケイシー療法を実践して

1996年の1月のことだった。私が知ることを恐れ、でもずっと心に重くのしかかっていたことが、ついに顕わになった。神経外科医のオフィスの椅子に座って結果を待っている時、私はこれまでの経緯を思い出していた。私は48才だったが、病の兆候はすでに30才のときから始まっていた。余談だが、私は予約を取るのにかなりの時間を要した。父や兄、叔父もみな医者だったし、私自身、看護婦だったが、医者に見てもらうことは、私にとってはいつも最終手段だったのだ。私は、医師には「緊急のときだけ」見てもらう主義だった。でも、これ以上避けてはいられない。――何かが変だった。たぶん、否定したい気持ちがあったことはあったのだが、色々な兆候が少しずつ確実に出てきてしまったことで、自分でももう否定することなど出来なくなったのだ。例えば、手に持った物を手放すことが出来なくなったとき(筋緊張症――筋肉の収縮の後に起こる一時的な硬直)、私たちが住む古ぼけた家 では、家事が大変だから神経がダメージを受けたのだ、と言い聞かせていた。

※1時間以上、泳ぎ続けることができなくなったとき、それは二人の子どもに付き合い続け、強いプールの塩素の影響を受けたからだと思った。
※スーパーの袋が徐々に重くなっていくように感じた。でもそれは、筋肉トレーニングが必要なのだと思った。
※起きたときや瞑想の後など目を開けていることができなくなった。(眼瞼下垂症――瞼やその一部が垂れ下がること)でもそれは、私が深いリラックスをしていたためだと思った。
※うつむくことは容易だったが、起きあがることは難しくなった。でもそれは年齢のせいだと思った。

しかし、息継ぎをすることなしに遠くまで歩くことが出来なくなったり、椅子から立ち上がるために足を固定しなければならなくなった時点で、私は何か神経系的な病気にかかっていることを認めざるを得なくなった。私は神経外科医をほとんど知らなかった。自分はどんなレッテル(病名)であっても――それは医師が決めたその病気の予後も同じことだが――嬉しいなんて思わないことくらい分かっていた。

私は神経外科医のオフィスにいた。評決を待ちながら・・・。ファンファーレもなしに、評決が下った。「筋緊張性の筋ジストロフィー」。後にそれは、正式に筋ジストロフィーという診断となった。

神経外科医は、これは子どもだけが罹る病気ではないと説明した。ゆっくりと、確実に身体の機能は悪化し続けていく。それも何十年にもわたって。それが遅々としたものか、急速なものかは個人によって異なる。多発性硬化症にあるような症状の鎮静は望むべくもない。いくつかの筋緊張性の兆候は薬で緩和することができても(私は断ったが)、手の施しようはないということだった。

次の予約は6ヶ月以内に入れると医師は言った。

私の心の一部は、もうバイクにも乗れない、泳ぐこともできない、公園を二度と歩き回ることができない、ということを予測することは出来なかった。

しかしながら、理性的になって、私は、実際的な立場から事態に近づき対処していった。寝室への階段は、だんだん昇降が難しくなっていったので、1階に下ろすことが検討された。病気のことは18才と24才の子ども達にも説明しなければならなくなったので、私は子ども達と静かに向き合い、彼らのどんな質問にも答えた。できるだけ楽観的な態度で。そしてもし私のすることが十分ではなかったら代わってほしいと頼み、子ども達は同意してくれた。

私は夫と離婚の可能性も話し合っていた。私の体調を考えると、二人の経済的な破滅は目に見えていた。夫は拒絶のなかにいるように見え、どんなに病気について実務的な会話をしようとしても、それは行き着く回答などなかった。でも感情的には、彼の態度は、不思議と慰めとなった。なぜなら私自身が自分自身の否認に陥っても、「私は身体以上の存在」であることを思い出したとしても、両方を受け入れてくれたからだった。

たいした変化もなく自宅での半年間が過ぎていった。食器は、陶器やガラス製から、軽く扱い易いプラスチックに変えていたが。しかし、私を怯えさせるような出来事があった。ものを飲み込もうとしたときに、窒息しそうになったのだ。

神経外科医との次の診察のときだった。私は彼を横切ってゆっくりと座った。「何か症状の悪化はありましたか?」と彼は聞いた。沈黙。それは人生のなかでも、強烈な一瞬だった。時間はずっと経ち続けた。私は、医師が私の病気の悪化を期待していることを悟った。吐き気がした。

「何も」「同じよ」と私は嘘をついた。医師は、神経と筋肉のテストをいくつか繰り返し、6ヶ月後の予約のスケジュールを聞いてきた。でも私は、「緊急」のとき以外、またそこに戻っていく気はなかった。

まだ衝撃は去らなかったが、再び、日常生活と家族との多忙な時間に自分を埋没させるために、自宅に帰っていった。

精神的なモヤモヤと無気力が病と一緒に訪れていた。そしてそれは進行していった。仕事を終えたり考えを説明するのに、かなりの努力を要した。そして時間の経過とともに、そういった努力をすることさえ止めていた。

AREは、自宅からほんの3ブロックにあった。私は、1985年からそこの会員登録をしたり、抜けたりを繰り返しており、ニューヨークのブルックリンに住んでいた頃は、神の探求のスタディグループに参加していたこともあった。1986年にバージニア・ビーチに引っ越してから我々「貸し切り会員」は、後に他の勉強会に変わったが、週に1度、AREのセミナーで会うことを続けていた。

言うなれば、私はエドガー・ケイ シーが様々な病気に対して述べたリーディングや治療法に慣れ親しんでいた。でも筋ジストロフィーについて調べることはなかった。その間、確実に頭の中がボーっとすることが日に日に多くなった。これは自分の意見をしっかり持ち、はっきりと意見を言い、人の世話にはならないというユダヤの血が流れるニューヨーカーの私にはありえないことだった。

カレン・デイビス、ありがとう。 この親愛なる賢い友人は、優しく、でも、根気強く、私が試みることが可能なケイシーの筋ジスのリーディングの存在を言い続けてくれた。その治療の一部は、 ケイシーが作り方の指示を与えたウエットセルバッテリーを含んでいた。不思議なのだが、今度は、希望が再び見えたことに慌てる自分があった。ちょうど、かつて神経外科医に欠けていたものに私がもがき苦しんだように。しかし希望の春は永遠である。深い闇、恐れ、失敗、消耗のなかにあっても・・・。

カレンはエドガー・ケイシー財団のジネット・トーマスと話をするように勧めてくれた。ジネットは、リーディングに関する事実は何でも知っている驚くべき知識人だということだった。ジネットありがとう。私が自分の症状を話したとき、彼女は、私がオフィスを訪れるか、自宅に来てくれることを提案してくれた。2時間後、自分の机の前に私と座りながら、彼女は自分で作ったグラフと、ケイシーが筋ジスに罹っていた人たちに与えたリーディングや症状の似ているリーディングを分類したものを置いてくれた。中身はそれぞれ違っていたが、ほとんどは、ウエットセル(湿電池)の使用を勧めていた。

ジネットは、ウエットセルを1つオフィスに置いていたので、一般的な使い方を教えてくれた。たぶん、何か電気的なものを扱わなければいけないということで私が寡黙だったり、混乱していたのを察知したのだと思うが、彼女は、ウエットセルは、懐中電灯より少ない電力しか発生しないと説明してくれた。実際、ウエットセルを使用しているほとんどの人は、何らの電気的な感覚を感じることはできないのだ。彼女は親切にも、もし私がウエットセル設置に助けが必要なら、私の自宅まで来てくれることを申し 出てくれた。

ジネットの励ましもあって、私は AREの図書館に行き、筋ジストロフィーについての回覧ファイル(ある特別なトピックへのリーディングだけを集めて作られたリーディングの調査ファイル) を調べて読んだ。それから、リーディングの目次ファイルを見て、全てのリーディングの数字をコピーしていった。調査が続くにつれて、私は更に希望へと導かれていった。

私と同じような症状を見せていた50代の女性に対して与えられたリーディングを見つけたとき、私はケイシーが彼女に対して与えたウエットセルの使用法の指示に従うことにした。そのリーディングは、一日おきに、2つの溶液を交互に30分間使用しながら、銅製ディスクは背骨の2カ所に当てることを勧めていた。身体にディスクを当てている間は、患者は安静にし、瞑想状態に自分をおき、受容性のある精神状態を保ちながら過ごす。

私の背中のポイントに整骨医が印をつけてくれたお陰で、夫が床からそのポイントまでを正確に測って棒を切ってくれた。そのため、私は常に自分でその背中のポイントを見つけることができるようになった。ということで、私はウエットセルを使う準備が整ったのだ。

しかしながら、リーディングは、 肉体的な療法を実行するよりも先に、適切な霊的、精神的な態度を深めるように言及していた。特別な聖書の一節が与えられ、読まれ、熟考され、時には暗唱されていた。私はその文章の意味するところを、このように自分なりに受け取った。つまり神の意志なのか、あなたの意志なのか、そのどちらの意志に従うのか、 まずそれを選びなさいと。神の意志を選ぶことは(それが「聞こえる」とき)、以前は犠牲になると理解していたが、そうではないと分かった。

それが私を幸福にさせたことだった。

患者の世話をする人にも、愛と期待を持った正しい態度を保つことが必要であると告げられていた。改善の兆しがあるまで何年もかかる可能性があることから、「一貫してすること、諦めないこと」がキーワードとして何度も何度も使われていた。しかし、リーディングの指示を熱心にやってくれていた人から、6ヶ月で結果が出てきたと聞いたときは感謝で一杯になった。

霊的な読み物を読んだり、霊的なことを調べながら、私はケイシー・ライリーマッサージスクールに、1人か2人、そのスクールの生徒が自宅まで来てくれて、私が毎日必要としていた30分の背骨のマッサージをしてもらえるかどうか尋ねた。マッサージはトータルで約1~2時間かかるウエットセル使用のなかでも、必要不可欠な毎日の手順の一つだったのだ。マッサージでエネルギーを背骨に沿って下に向け、それからグルグルと回るような動きで手足の先のほうに、そのエネルギーを持っていかなければならないのだ。3人の現役と元生徒が来てくれることになり、また頼りになった。彼らは私の人生における特別な天使たちだ。

ケイシーリーディングは、食事療法も推奨されていた。ただその食事療法は、私にとっては取り入れるのは比較的容易だった。しかし警告されていたことだが、アルコールを飲んだときには(あるいは身体のなかでアルコールになるもの-カンジタ酵母の増殖や砂糖の含有などで)とウエットセルを行ってはいけない。

カルマという視点は少なくとも私には救いとなった。朝食に何を食べたかを思い出すのは難しい。ましてや10ヶも前の前世の出来事なんて思い出すことは更に難しい。私はカルマというのは、神からの罰よりも自らに課した苦難のほうが大きいと思う。我々人間は、自分が 犯した罪は許されないと信じ、その罪に対して自分自身が判断をくだし、とがめ苦しめる。でも神は我々一人、一人にこういうと私は思う。「この人は、私が自慢にしている最愛の娘/息子である」と。神は私たちを十字架から卸そうとするからこそ、ケイシーを通して、私たちがあがく不治の病に効果のある治療法を与えてくれたのだ。

全てが揃って、私はついに、ウエットセルによる日々のルーティンとその他の勧められた療法を開始した。日記をつけたり、あるいは瓶のなかの化学溶液の経過を追ったり、何回使用したか、 いつバッテリーを交換したらいいかを記載したノートをつけることなしには、この日々のルーティンは不可能だったと思う。非常に役に立ったのは、見た夢や出来事、考えたこと、自分で体験した兆候を書き留めることだった。これらは忘れやすいものだ。特にモヤモヤした状態にいるときには・・・。それに、もし何らの改善(これはどんなものでも、非常に緩やかに起こってくる)も見られないなら気落ちしてしまうだろう。

私はウエットセルを使い始めて1週間後、日記につけた最初の夢を覚えている。この小さな出来事は、それ以前の数年間、夢を覚えておくことができなかった私にとっては重要な出来事だった。もちろん夢は私の人生にとっては重要な部分ではあり続けていたが・・・。10年前に遡るが、マークサーストンの夢解釈のレクチャーには感謝したい。

他のいくつかの兆候のお陰で、 1ヶ月以内に私の精神的なモヤモヤは晴れていった。2ヶ月以内には、窒息しそうになるのは落ち着いてきて、疲れることもなく、少し遠くまでも歩けるように なっていった。実際、ジネットが最近私に思い出させてくれたのだが、ウエットセルを使うようになって私が最初に彼女に言った言葉は「また息が出来るの!」 だったのだ。

普通、一番最近に出た兆候がまず最初に消えた(訳注:つまり、一番最初に出た兆候は、身体にあった期間が長い分、なかなか消えない)。

ケイシー療法を開始して1年半が 過ぎた。何もかも上手くいっていると本当は言いたいところだが、そうはなってない。私は眠れる予言者からの私個人へのリーディングを取ることができなかったので、試したり失敗をしたり、私の心の内から、そして外から(訳注:本や人のアドバイスなど)の指導があったり・・・。それがもっと深淵で、もっと一貫していれば良かったのだけれど・・・。
そういったことであっても、70%は改善したと思う。私は人には私が筋ジストロフィーだとは言わない。私はそれに罹っていたと言っている。あなたがなんと思おうと、この二つには違いがある。

おそらく、100%治癒したと言えるまで私はこの体験談を書くべきではなかったのかもしれない。でもNYに居るときから私はいつも急いでいたのだ。この瞬間にも誰かの助けになるかもしれない私の体験談を誰かと分かち合うのに、もう待てなかったのだ。

神様、エドガー・ケイシーに感謝します。

AREの機関誌 ベンチャーインワードの雑誌記事より
翻訳:光田菜央子

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